葬儀は誰のためにあるのか
シンプルに生きる
グリーフ 悲しみを癒す
グリーフケア・死別の癒しについて つれづれ綴っていきます
葬儀やお通夜という儀式
彼が亡くなったのはコロナウイルスが世に出回る以前だったので、普通の葬儀を行うことが出来ました。
そういう意味では幸せだったと思います。
沢山の友人知人や家族が愛する彼とお別れする儀式を行えたのですから。
夫の葬儀は都内の火葬場で行いましたが、火葬の予約がいっぱいでしたので、亡くなって一週間後の葬儀になってしましました。その間、彼の身体は火葬場の冷蔵庫の中に保管されていました。
それはそれで辛く悲しいことだったけれど、好きな時に会いに行けたし、一週間という時間が私にはちょうど良かった。むしろ短いあっという間の時間でした。
会いたいときは保管庫から出してもらい、ほんの数分間だけど顔を見て、頬を触ってあげることが出来ました。
その時、ああ、彼のこの身体は抜け殻なんだなと感じました。
彼はここにはもういない。物体としての身体は彼のモノであるけれど彼ではない。そんな気がしました。
本当の彼は既に身体を出て自由に飛び回っている・・・。
抗がん剤のために髪を剃ってしまったけれど、亡くなる一カ月前には抗がん剤をやめていたこともあって、短いけれど黒々した髪が生えてきていて、彼の身体の生命力の強さを感ぜずにはいられませんでした。
その髪を少しだけ切って手元にのこすことにしたけれど、短すぎてあまり切れなかった。
悲しすぎてかわいそうで切れなかったのもあったかな。
そういうわけで、一週間後、無事に通夜と葬儀(告別式)を行いました。
火葬場へ行く直前が本当に辛かった。
もう、この目で彼を見ることが出来なくなる。触れることもできなくなる・・・。
そう思ったときに、彼に最期の最後のキスをしていました。
あとで、聞いたのだけれど、葬儀で亡くなった伴侶にキスをする人はほとんどいないのだとか。
何百件もの葬儀にかかわってきたという人からそう言われたときはちょっとびっくりしたと同時に赤面してしまった。結婚式で皆にはやし立てられながらキスするカップルは多いけど、お別れの時だってキスしたっていいじゃない?!
葬儀やお通夜は残された者のためにあるのかもしれない
「葬儀」や「お通夜」というのはただの儀式だから別に必要じゃないという意見もあるようだけど、私が感じたのはこれらの儀式は残された人のためにあるのかもしれないと思ったこと。
旅立つ方はきっとそれを上のほうから眺めていて、葬儀に来てる人達とか、誰が泣いてるなとか、そんな様子を見ているイメージ。
魂が去った肉体は時間と共に細胞が壊れていってしまう。自分もいつかこうなるのだということを目の当たりにする。愛する人であっても、死後の世界へは一緒に行けない。
肉体との決別と魂の弔い。受け入れなければならない現実を突きつけられて、仕方なく諦める。
そのための儀式。
残された者たちの儀式は身を削られるほどの悲しみと痛みを伴う。それを内側に収め、抑え込み、表面では朗らかに微笑んでお別れをする。
一区切りつけなければならない。
日本では、遺体を火葬する。そのまま棺桶に遺体を収めて土中に埋めるわけではないから、火葬前が一番辛い時だ。お骨と灰になってしまった彼でも、まだ未練が残る。
良く聞くはなしで、お骨を圧縮してダイヤモンドのようなものにするとか、お骨を食べるとか、分骨をして手元供養をするとか。いろいろあることは分かっていた。実際、自分はどうしたいと思うだろうと想像はしたけれど、実際にそうなってみなければわからないと思っていた。
そして、それは図らずも意外に早くやってきた。
私は・・・どうしたいのだろう。
考えるともなく考える。虚ろに思った。感じようとした。しかし、感じられなかった。
結果、お骨はお骨だ。彼ではあるけれど、私の知っている彼は魂になった彼だと思った。
だからお骨は彼の大好きだったお母さんの元にいさせてあげようと思った。
彼の母親も50代で乳がんで亡くなっていた。彼と同じ大きな美しい瞳を持った清々しい女性だった義母。
そう決めたとき、すっと心が楽になった。
葬儀やお通夜は残された者のためにあるのかもしれない お通夜 葬儀